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不当に高いATM手数料

銀行ATMの手数料が現代の日本で最も不当に高いと思う妥当な理由

お駄賃と手数料のこと

子供の頃、よくお遣いに行かされた。家人なら家の手伝いをするくらいのことは当たり前とも言えるが、それが「お遣い」となると子供にとっては格別の仕事となる。現金を預かり任務を遂行する。子供の世界ではまず他に並ぶべくもない重大事である。

ここには小さいながらも、親からの信用と信頼に対し、子供もそれに応えるだけの責任と義務を負う、という取引関係が一応成立している。取引である以上は提供した役務に相応しい対価があって然るべきである。要するに駄賃である。

因みに我が家では買い物の釣銭がそれに充てられた。その額たるや絶妙で、断るに惜しく請けるに難し、といったところを見事に突いてくる。この辺りのところをきっと世の中では妥当と呼ぶのであろうと子供心によく思ったものである。

その子供の知恵でも、その役務にその対価は不当であろう、と思えるものがいくつかあった。その一つが郵便である。その当時で、葉書40円に封書60円、これで日本中に便りが出せた。文字通り日本中にである。

例えば、北海道の誰かがポストに手紙を投函したとする。それを郵便局員がバイクか車で取りに来る。回収された郵便物は本局から大きな集積所へと運ばれ、そこで分類されトラックに積み込まれる。仮に宛先が沖縄なら、途中船か飛行機を利用してやっと島の集積所まで運ばれて来る。そこから郵便物は宛先ごとに各局に振り分けられ、配達員がバイクで家まで届けてくれる。これでたった40円(あるいは60円)である。

その道程ではきっと雨も雪も降るだろうし風だって吹くだろう。それでこの金額である。いくら何でも不当に安いのではないか。勿論、近場でも同じ料金だからそれでバランスを取っているのかもしれないが、仮に隣町と考えてもこの役務に対し40円・60円はちょっと安い。

その一方で不当に高いのが電話料金であった。ここで言う電話とはかつての固定電話のことである。仮に北海道から沖縄への大長距離電話ともなれば恐ろしいことになる。例えば、電話ボックス(今となっては懐かしい)に入ってテレフォンカード(これもまた)を使って長距離電話を掛けるとする。

するとカード残高を示すカウンターがキッチンタイマー並みの速さで減って行く。「あー」だの「えー」だの言い迷っている暇はない。さすがにこれでは高過ぎる。その過程において誰かが動いてくれる訳でもない。その間の列島の天気が雨でも雪でも関係ない。せめて交換手でも出てくれれば多少なりとも納得できたのかもしれない。

その電話ボックス(テレフォンブース)とブース繋がりという訳でもないが、今最も不当と思えるのがATMのキャッシュサービスである。

たとえ同じ銀行のATMでも時間外なら自分の口座に自分の金を入れるのにさえ手数料を取られる。他行なら倍額である。雀の涙ほどしかない利息など一回のATM利用でパーである。それに、そもそも手数料というのは文字通り手数(手間)を掛けた側が貰うべきものなのであって、手間を掛けさせた側は本来払うのが道理であろう。

こんな状況に身を置いたことはないだろうか。ATMにて振込をしようとする。50音図から銀行名・支店名を選び、口座種別・口座番号を入力し、最後に振込金額を入力する。さらに備考欄への入力が必要な場合には難度と不安度は急上昇である。

しかも途中一度でも仕損じたら「最初から手続きをやり直して下さい」と聞えよがしに指摘され、ブース全体の晒し者にされる。これが二度もあると列の後ろの方から舌打ちが聞こえたりなどし始める。ますます焦る。事ここに至っては大手間どころか、まさに地獄の沙汰である。

散々な思いをして、やっと一仕事終えて出て来た明細を見ると、手数料648円と書かれている。貰えるのではない。払うのである。「バカな!」と叫びたくなるのは自分ばかりではないだろう。

こんな感じにイラッとした時、自分が子供の頃に貰っていたお駄賃という極めてドメスティックな報酬体系が如何に妥当であったかということが懐かしさと可笑しさとともに思い出されることがある。
もしかすると日本人は取引相手が大きくなればなるほど、その不当性に鈍感になる奇妙な社会性を持っているのかもしれない。



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