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二・二六事件と高橋是清

1936年2月26日未明に陸軍の青年将校らが1400名余の兵を率いて昭和維新を起こそうと決起し、未遂に終わったクーデターとされる。この犠牲者となった一人が高橋是清である。

高橋是清による高橋財政は、金輸出解禁による円安放置政策、日銀引受による国債発行と財政支出の拡大、大きな低金利政策が柱となっていた。景気対策という側面からみると、井上デフレと呼ばれた深刻な不況から脱するために、積極財政と低金利政策により有効需要の拡大を計った。高橋財政の柱のひとつである財政支出の拡大は、農村救済のための時局匡救事業はあったものの、軍事費の拡大が最大の要因となっていた。

放漫財政とも呼ばれた拡大財政について高橋是清は、比較的短期間のうちに歳出規模は再び収縮し、景気回復に伴う税収増と相まって財政収支は均衡を回復するとの認識でいたが、これはやや楽観的すぎる見方であった。1934年度の予算編成のころとなると、さすがに高橋是清も財政膨張の抑制、国債増額の是正に取り組みはじめる。1934年4月に高橋蔵相は次のように発言している。

「赤字公債が年々増えることは良くない。政府は決して之を安心して、何時までも続け得るものとは思って居らぬ。併し一昨年以来の我が国の一般経済界、産業界の有様を見たとき、先ず政府が刺激剤を与えるより外に手段はなかった」

1932年以降の政府支出の拡大要因は軍事費の拡大が主要因となったことで、財政政策の転換は簡単にはいかなかった。1935年に高橋蔵相は軍備拡張を強引に要求する軍部と対立する。高橋は軍部予算を海軍と陸軍一律に削減する案を実行しようとしたが、海軍に対する予算規模の小ささに不満を持っていた陸軍の恨みを買うことになり、二・二六事件で高橋蔵相も標的とされたのである。

高橋財政のリスクとしては、財政拡大の主因が軍事費であったことに加え、日銀による国債引受があった。これについて高橋是清は「一時の便法」と称していたが、それはある意味、パンドラの箱を開けてしまったと言える。

デフレからの脱却期であれば、その弊害は見えてこないものの、経済が回復するとそのリスクが拡大する。つまり、日銀による国債の売りオペを行って過剰流動性を吸収しても、国債発行による財政拡大が続けば信用膨張が進む。これを抑制しようにも金融引き締め政策の実行が著しく困難となる。

高橋是清の考案した日銀引受による国債発行は、市中公募と異なり発行額や発行条件が市場動向に左右されなくなる。そもそも日銀の国債引受方式による大量の資金供給は金利そのものの引き下げも目的としており、財政負担の軽減を目的に発行する国債の利率の引き下げを計ることも重要な目的となっていた。

金融緩和策とともに、国債の発行条件の引き下げにより、金利の先安予想が強まり、国債価格の上昇予想を背景にして、国債の売りオペを通じての市中消化を円滑に行うことが可能となっていた。つまり、これは金利の引き上げを行うことはかなり困難になることを意味し、その好循環が途切れるとすべての歯車がうまく回らなくなることも意味する。

結果的にこれが戦後のハイパーインフレの要因となり、政府債務はそのハイパーインフレと預金封鎖により国民の金融資産を吸い上げて返済されることになる






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